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P.S. I LOVE YOU
山本剛 with 伊東忍 , 中村照夫
中村誠一 , アート・ゴア
ジム・マックニーリー
チャギー・カーター
TOSHIBA EMI/EWJ-80182 (1980) |
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このスウィートな、山本 剛にしてはスウィートすぎるとさえ感じさせるこの「P.S.I LOVE YOU」は、山本がニューヨークで過ごした8ヶ月の、一つの音のドキュメント。
77年9月、山本は米西海岸はカリフォルニア・モンタレーで毎年開かれている名門ジャズ・フェスティバルにクラリネットの北村英治とともに招かれ出演、その後約8ヶ月をニューヨークで生活した。山本にとって、それはジャズを見つめ直す、のんびりとリラックスした旅であった。
現地で特に仕事を取る訳でもなく、ジャズを空気のように呼吸する毎日だった。
マンハッタン、イースト・ビレッジ9丁目、1番街と2番街にはさまれた、ファンキィーな町並みが山本の落ち着いた先だった。プエルトリカンが多く済む、ハタ目から見ればかなりヤバイ街だった。しかし、山本の気持ちにそこは、実にしっくりと来る場所だった。
そこここから、サルサのリズムが湧き上がってくるファンキィーな街が、山本のフィーリングにはピッタリだった。山本はアパートに腰を落ち着けると、古道具屋で小さなスピネット型アップライト・ピアノを買い込んだ。$500だった。のんびりした毎日、そんな中から、いくつかの曲が生まれた。気取りのない、素直な曲がたくさん生まれた。
そんな山本の生活に、大きくかかわってきた男がいた。中村照夫、才能がしのぎを削るニューヨークのジャズ・シーンで、日本人ジャズメンとして最も鮮やかな足跡を残しつつあるベーシストだ。1964年5月の渡米以来、ジャズを生活の基盤としながら、アメリカで生きることを目指し、闘い続けてきた男が中村照夫であると言えるだろう。
山本と中村は、10年来の友人同士だった。二人の友情は68年、中村照夫が今はもう解散してしまったモダン・ビッグ・バンドの最高峰「サド・ジョーンズーメル・ルイス。オーケストラ」のロード・マネージャーとして同行来日した時以来続いているという。それは、絵に画いたような理想的な友情関係だった。山本にとって中村は「しょっ中ケンカもするけど、すごく気が合う男」であったようだ。
山本はニューヨーク滞在中に、中村と頻繁に交流した。当時、中村は自己のバンド「ライジング・サン」での第2作「マンハッタン。スペシャル」(米ポリドール)、邦題「ソング・オブ・ザ・バード」(キティー・レコード)をリリース、大ヒットを放ったばかりのときだった。それは日本人ミュージシャンとしては初の快挙だった。中村の名は一躍全米に轟いた。ちなみに77年11月19日付のキャッシュ・ボックス誌ジャズ・チャートでは、13位にランクされたのだった。
そんなある日、中村は山本にニューヨーク滞在中にレコードを製作してみないかと申し出た。
中村の胸に、ミュージシャンとして生きるとともに、プロデューサーとしてトータルな音楽創りをも手がけたいという夢が大きくふくらみつつあるときだった。
さっそくリハーサルが始まった。雪のニューヨーク、ロウアー・マンハッタンにある中村照夫のロフトは急遽リハーサル・スタジオに変わった。その時の模様を中上健二(51年「岬」で芥川賞受賞)は「週間プレイボーイ」に連載された「RUSH」にこう書き送った。
(前略)正月、雪のニューヨークで、小説家、いや小説野郎、小説気違いがジャズ野郎と逢った。
このジャズ野朗、中村照夫という名前、実にいい顔している。(中略)−ニューヨークにはバクダンがよく似合う。というのも、アパートの入り口の防弾硝子でおおった管理室の前に、プエル・ト・リコ人の爆弾犯人の顔写真のチラシが貼ってある。そのクサリにクサった私に、ニューヨークのPB野朗、塚本潔がベーシストの中村照夫の名を挙げた。キャッシュ・ボックスのカテゴリーをはずした百位内に、テルオ・ナカムラとライジング・サンの「マンハッタン・スペシャル」が入っている。国際的文学者、国際的音楽家と流行る国際の本当の意味を持ったジャズ・アーティストだ、と塚本は、国連本部そばにあるニューヨークのPB支局のスティームのきいた部屋でその「マンハッタン・スペシャル」をかけながら言う。テープデッキがとてつもなくいい。塚本にいくらしたのかと訊ねると、思った以上に安かったと言う。中村照夫というより、ここではテルオ・ナカムラだが、電気屋のオッサンまで人気ベーシストだと知っているので、安く買えたのはいわばその顔での事である。
それで、日本から来ているピアニストの山本剛と意気投合して、急遽レコードを作る事になり、リハーサルに入っているというテルオを訊ねて、ソーホーにあるテルオのロフトに行った。冬の夜のニューヨークは極端に寒い。車から降り、塚本が手袋をはめたままロフトのベルを押す。犬の吼える声がする。私、南国の紀州生まれでさむさに弱く、身を震わせてロフトの1階のハンバーガー屋を見ている。店内は誰もいないし灯もない。ただハンバーガーという文字のネオンだけ消し忘れたようにある。
ジャズが確かに聞こえてくる。シンセサイザーとドラムだと分る。帽子を被った眼鏡の黒人が出て来、塚本と握手し、私に、ハイ、ナイスミーチュウと手を差のべる。犬が私の顔を見ている。
階段を昇り、室に入る。そこにテルオはいた。ボサボサ髪、負けん気の強そうな鼻、ただ一皮の目に悲しみのようなものがある。挨拶をし、握手し、私、ソファに坐る。それから何日、何時間そうやってそこに坐ったか?
日本からきた山本剛の曲やコルトレーンの曲を、テルオが、違う、違うと声を出し、足ではずみをつけながら一節歌ってみ、山本が弾き直す。OK,もう一度、ワン、ツーと声を出し、4人は弾きはじめる。(中略)――リハーサルが終わった時、テルオが「退屈じゃないか?」と訊いた。
音があればいいって質だから、と私は答えた。テルオに万感の想いをこめて私はそういったのだった。ジャズびたりは、ほめられたもんじゃない。ジャズなどなくても人は生きていかなくちゃならん、だが、ジャズについ、耳が動いていく、音に耳が動いていく。テルオは「そうだよな」と言い、手に入れたばかりだと言うキューバ産の葉巻に火をつけ、ため息のように煙を吐く。
「俺もそうだよな」独り言のようにつぶやく。
テルオのジャズはスウィートである。シンセサイザーを使っているからであろうが、クロスオーバー風である。
昔の私の好みだったコルトレーンやアイラー、アーチ-・シェップと随分違うが、何故なのか分らない。その時、実に新鮮に耳に聞こえた。コルトレーンやアイラーに惚れ込むあまり、その音、そのジャズに意味をつけすぎ、ジャズを理屈で聴いていたのだとも、テルオのジャズを聴いて思った。「マンハッタン・スペシャル」1枚が描きだすマンハッタンとは、アイラーの自殺死体が浮いたハドソン川に面したマンハッタンではなく、柔らかな感性が映しとった街なのである。
雪が降っていた。レコーディングのため、ロフトから楽器をテルオらは下に停めたマイクロバスに運んでいた。最初、3階の踊り場から私は見ていた。テルオの肩に雪が舞い落ちていた。
私は2階のテルオのロフトから、アンプを1つ持って、重みを感じながら降りた。(1979年集英社刊「破壊せよ、アイラーは言った」に収録)
リハーサルは10日間続いた。スタジオを無駄に使うわけにいかない。スタジオ入りすれば、スパっと短時間で仕上げられるまでに演奏を練り上げておく必要があった。レコード発売会社もまだ決まっていない時点では、とにかく贅沢は言ってられなかった。
雪の降りしきる中を、ナカムラのバンが楽器を48丁目のA&Rスタジオに運んだ。山本はこう回想する。「冬、それも雪で、大変だった。僕もいろいろレコーディングしてきたけど、ニューヨークのこのレコーディングが一番印象的だった。リハーサルは10日間位、その間、ケンカもよくしたよ。でもテルオとはどういうわけか、すごく気が合ってね。いいレコーディングになった。スタジオでは、ほとんど1テイクでどんどんとって行ったんだよ」
セッションは山本(ピアノ)、ナカムラ(ベース)、そしてジョージ・ベンソンの「バッデスト・ベンソン」やソニー。リストン・スミスの「コズミック・エコーズ」などにも参加したドラムスのアート・ゴアの3人で進められた(数曲にはパーカッションのチャギー・カーターが加わった)。
山本のオリジナルで、軽いボサノバ調の<アナザー・ホリデイー>(A−1),デューク。エリントンの作った美しいバラード<ドント・ユー・ノウ・アイ・ケア>(A−2),ケニー・バレルの<オール・ナイト・ロング>(A−3),中村がゴスペル・タッチのコードを提供し、山本がメロディーをつけた<P.S.I LOVE YOU>(B−1),デューク・エリントンのアイ・ディドント・ノウ・アバウト・ユー>、さらに今回のアルバムには収録されなかったが、当時アメリカで流行っていたディスコ・ナンバーも2,3曲レコーディングされた。スウィートな作品の誕生である。しかし、ナカムラはこの作品にさらに深みと豊かなフレイバーをつけ加えることを考えていた。タイトル・テューン<P.S.I LOVE YOU>には、包み込むようなソフトなストリングスをつけようと中村は考えた。ストリングス・アレンジメント
はスティービー・ワンダー、ジョー・ヘンダーソン、カーティス・フラーらと交流の深い、ビル・ウオッシャーに白羽の矢が立てられた。さらに<アナザー・ホリデイ>には、在ニューヨークの若きテナー・マン中村誠一と同じく新進ギタリスト、伊東忍、シンセサイザ-のジム・マックニーリーらがカラフルなサウンドをつけ加えた。
いつもの山本剛とは、一味違うアルバムが仕上がった。トリオだけで演奏されるエリントン・ナンバーなどでは、美しい歌心とジャズ・フィーリングが横溢する。山本は完成したアルバムを聴いてこう述懐した。「もう2年も前の録音だから、こうやって新しく生まれ変わったような作品を聴いてアレっと思ったような所もある。でも、こういうレコード好きだな、聴いてると、あの時のニューヨークでの毎日が、次ぎから次ぎへと頭の中に蘇ってくるんだ。僕にとって、最も印象的なアルバムの1枚だな」
立石 翔
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